日本の広告は、平等教育の犠牲者です

ホントにまさに教訓のような文章だと思いました。
まだまだ自分には雲の上のような世界ですが、
広告人の端くれとしてずっと意識していきたいです。
自分に出来ること。自分から変われること。
たくさんの方々の恩恵をうけながら、
たくさんの作品から学びながら、
ひとつずつ表現していきたいと感じました。
ありがとうございます。

日本の広告は、平等教育の犠牲者です

 ついにカンヌの入賞作がゼロの年を迎えました。電通では、小田桐さんがボウズになるという噂がある。
 しかし、悪いのは教育です。すべて学校教育のせいにすれば、間違いはない。
 学校にはやさしい先生がいて、「人間は、平等です。差はありません」「自分が感じるままに表現をすれば、それが伝わるはずです」と教えてくれる。
 ところが、なんか違うんですね。どんな人でも面白い落語を聞けば笑うことができる。しかし、だれでもが落語家になって、人を笑わせることができるわけではない。
 つまり、人はだれでも感受性とかはそんなに差はなくても、表現能力にはかなり差があります。これが真実なのです。
 まったく赤の他人を笑わせたり、感激させたりするということは、さまざまなコツ、ノウハウがあります。それをちゃんと学んだ上で、自分の個性とか感性がそれぞれ出てくるべきものだと思います。
 ニューウェイブともてはやされる海外の若手映画監督でも、ものすごく昔の映画を徹底して研究している。いろいろな表現から多くを学んでいます。
 広告もまた、表現能力を要する仕事です。そのために学習も教育も訓練も要る。
 ところが最近はどうだろう。代理店もプロダクションも若い人を教育するお金も時間も少なくなっているのも事実。若い人は馬車馬のように働かされて、学べなくなってしまった。
 その結果、コツを学べずに自分の思い込みだけの「感じるまま」にやってしまうクリエイター、「おれたちだってCMづくりは分かる」とばかりに口を出す営業、得意先の若い人たち。
 日本の広告は、平等教育の犠牲者です。

(玄光社「コマーシャル・フォト」1987年9月号より引用)